飛鳥周遊ウォーク☆
今回の道のりは、談山神社に集合~気都和既神社~石舞台~伝飛鳥板葺の宮~大原神社~入鹿の首塚と言うコース。
講師はいつもの上野先生と水野先生です♪
談山神社から石舞台への道は歩いたことがないし、距離は7キロと手ごろな感じで、すごく楽しみでした!
この日はからりと晴れ上がった青空が美しく、飛鳥ウォーク日和♪
桜井駅からバスで25分ほど揺られ、談山神社のけまりの庭に集合したら、かるほさん、ゆずさんご夫妻、たらちゃんご夫妻(ごふさい、よ!)(笑)yumekoさん、 punipuniさん、ひろこさんなど、嬉しい顔ぶれにお目にかかりました☆
談山神社は中大兄皇子と藤原鎌足が大化改新を談らい合った山が社号の起源となっていて、もとは妙楽寺と言うお寺でしたが、明治の廃仏毀釈で神社となりました。
青空に映えて美しいこの十三重塔は、木造のものとしては日本唯一。
宮司さん、上野先生、水野先生の御挨拶の中でここには折口信夫の歌碑があること、宮司さんも上野先生もそして水野先生も折口信夫とは浅からぬ御縁があることを伺い、先日上野先生の「魂の古代学」を読んで感銘を受け、折口信夫の「死者の書」も読んじゃった私は一人ホクホクでしたわ~ん。
出発まで少し時間があるので、秘仏の談峯如意輪観音を拝観した後、本殿を拝観
さて、ここで、談い山(神社の裏にあります)と御破裂山(談い山より高い)に登ることが判明(汗)
談い山は中大兄皇子と鎌足が密談した場所で、御破裂山は日本にことがあるとき破裂するという恐ろしい山(怖いよ~)
けまりの庭で待ってても良いんですが、一時間ぐらいで行けるという甘い誘い(ってだれも誘ってなかったけど)に乗って、ついつい登ることにしてしまいました~。
で、その決心を私はすぐに後悔しました・・・・こんなに狭い道幅の急な坂道だなんて知らなかったよ~(泣)
もうイヤ、って言う感じの山道でした・・・・もしこんなところに夫の親族の墓があって、年に一度お墓参りに来いと言われたら、私、実家に帰らせていただきます!(笑)
自生のものは初めて見ました…見てても気が付いてないのかも?(汗)
これは、こんにゃくいもの花。
確かに里芋やカラーの花と形が似てるけど、色が珍しいですね~。
登れば下るのが人の世の習い(涙)
とっとこ下って、けまりの庭で待っておられた方たちと合流して、石舞台に向かってくだったんですが…
この下りがすごかった(汗)
二人並べないほどの狭い道幅で、木の根や石がごろごろしてて、雨が降ったら川になるに違いないような、そんな道で、高取城からの下り道を思い出しました(劇汗)
先日膝を痛めて少し心配だった私は、サポーターをして行ってたので、膝はなんとか無事でしたが、太ももがぴくぴく(笑)
幸い、高取城とは違って、スタッフさんや学生さんが道案内をして下さったり、あぶなかったら助けて下さったおかげで、なんとか降りられましたわ☆
下ることしばし、ペッたんこの広い下り道に出た時は、文明のありがたさに震える思いでした(笑)
この日最初のポイント、気都和既(きつわき)神社(もうこの森)に到着。
鳥居に稲が下がってました。
もうこの森、は説明板には
「大化改新で中臣鎌足が飛鳥板蓋宮で暗殺した蘇我入鹿の首に追われて、ここまで逃げ込み「もう来ぬだろう」と言った」とありますが、上野先生によると、もうこ、とは蒙古のことで、怖いものを象徴する言葉だったのだろうと。
なるほど~☆
ここからは、明るい日差しの中をだらだら下がりで、あたりを見回す余裕も出てきました。
式子内親王は藤原定家より13歳年上だそうですが、定家って年上好みだったのかしら(笑)
写真のフォルダーを確認したら、見つけました☆
これがほんとのスイカズラです!
確かに定家葛とは花の形が違いますね。ひろこさん、ありがとうございました☆
日本茜。
この根っこは草木染めの染料になりますが、最近は減ってるので、ほとんど輸入らしい。
昔はいっぱい自生してたんでしょうね~。
これらの花は、全部、ひろこさんに教えて頂きました!
ひろこさん、ありがとうございました☆
ようやく石舞台に到着し、多武峯を振り向いてみたら…ほんまの高い山でした(汗)
あれを下ったと思うと、ちょっとびっくり。
とうのみね、という名前は、峰が重なって撓んでいる、と言う意味だそうで、飛鳥びとから見た多武峯ってそういう印象だったんだそうですが、ほんとにその通りだと思いました!
お昼御飯のあと、水野先生のお話♪
今回のテーマの藤原鎌足と言う人は、とっても有名な人ですが、政治の表舞台に立ったことは少なく、天智天皇を陰から支えた人でした。
その鎌足は、息子の定慧によって御破裂山に埋葬されたことになってますが、1934年高槻市の阿武山で、漆喰の石室と漆塗りの棺、玉枕そして金帽子をかぶった遺体の入った古墳が発掘されました。
鎌足は「大職冠を賜った」と言われていることから、この金帽子の遺体が鎌足では?という疑問が生まれ、今日に至っています。
しかし、水野先生によると、帽子と冠は違うものなので、どうかな~???と言うことでした☆
どうなんでしょうね♪
ここで水野先生とはお別れ。
上野先生と御一緒に平坦な道を(嬉しい!!)歩いて、飛鳥板葺の宮につきました。
例の井戸端に座り、お話を伺います。
今日の最初のお歌は藤原鎌足の
「 吾はもや 安見児得たり 皆人の 得かてにすといふ 安見児得たり」
この歌は、天皇の女である采女を得ることができた喜びと、それほど天皇に信頼されている喜びという、人生無上の二つの喜びを表わしているそうです~。
鎌足と中大兄皇子の結びつきの強さを如実に表すお歌なんですね。
次のお歌は舎人親王に献じた
「ふさ手折り 多武の山霧 しげみかも 細川の瀬に 波の騒ける」と
それに答えた舎人親王の
「ぬばたまの 夜霧は立ちぬ 衣手の高屋の上に 棚びくまでに」
の二首のお歌。
舎人親王は細川の上流に、献歌をした人は下流にいて、二人は多武峯の上流は霧が濃いという常識を共有している仲で。
下流の彼女が、多武峯の霧にかけて「あなたをいつも思ってます」と胸の思いを吐露し、舎人親王は「夜霧は高い建物のずっと上までたなびいているよ」と答える…
う~~ん、真昼間じゃなくて、一献傾けながらお聞きしたいお話でした~(うっとり)
このあと、大原の里へ。
また、万葉集の天武天皇から藤原夫人に贈った
「わが里に 大雪降れり 大原の ふりにし里に 降らまくはのち」
と言う歌の舞台になったところ。
藤原夫人は鎌足の娘の五百重娘だそうですし、ここは藤原氏の里だったんでしょうか。
その後、万葉文化館の周りをぐるっと歩いて、入鹿の首塚につき、一応ここで解散です。
7キロとはいえ、下りが急だったせいかかなり疲れましたが、そこから飛鳥資料館のキトラを見に行きました☆
タダ券を持ってたんですよ~(笑)
皆さんご存じのように、今年はキトラ古墳の四神壁画が全部公開されてます…が、その割に混雑は少なく、って言うか、待ち時間ゼロ。
何時だったか、二時間近く待ったことがあったのに、今年のこのありさまは何???
とはいえ、空いてる方が良いに決まってるわ~♪
青龍は顎と爪位しか見えないけど(汗)あとは結構はっきり見えました。
やっぱり全部一度に見ると、頭の中で石室を描きやすくて良いですね☆
翌日に親戚の法事を控えていた私は、あとのお楽しみを泣くなくパスして
皆さんにお別れをしました・・・・・・
初めてのコースはなかなか面白かったですが、もう一度あそこを歩くかと聞かれたら…
相当躊躇います(笑)
来年は、距離だけではなく斜度も確認してから参加しよう、と心に決めた私でした(笑)。
余談ですが、翌日の法事で一時間ばかり正座をしたら、太ももの前側が攣ってましたわ~(汗)